2007年09月23日
朝鮮人の日帝時代の証言を読んで思う
戦中に朝鮮人帝国陸軍将校だった洪思翊中将のことを調べていて、こんな記事に出会った。
洪中将の為人はおぼろげに知っていたが、このブログには彼だけでなく、他にも日帝時代の実際を生きた数々の朝鮮人の証言が引用・紹介されていた。
どの証言一つとっても、「日本は韓国人を差別した、収奪した」とか、「日本は韓国によいこともした、併合は韓国人が望んだ」とか、どちらの立場からも一刀両断にはできない複雑さを持っているし、また個々のケースも、日本に留学した者、祖国で暮らした者、それぞれの立場の違いをはらんでいる。
どのケースも時代の証言として貴重なものだし、またここで紹介されているものに限らず、あらゆる時代の証言が一面では真実なのだろうと思うが、しかしだからといって、そのうちの一つを取って時代を代表する証言とすることはできない。
例えば、
- 創氏改名は強制性をはらんだ制度ではなかった、と言ったところで、末端の運用現場では事実上の強制だったケースがままあったようであり(ちょうど最近、北九州で本来の生活保護の精神と異なる運用が現場で為されて餓死者が出たように)、それに接した朝鮮人が「創氏改名は強制」と主張するのに対し、「強制ではない」と主張したところで何も真実には近づけない。
- また日本の責任と救済と訴える慰安婦達にとって、慰安婦になったのは確かに、騙されたりして自分の意図と異なることを強制された結果の不幸であったのは事実かもしれないが、しかしだからといって、その彼女達に不幸を押し付けた犯罪的な実体が、本当に彼女達が主張するように日本の軍部そのものであったのか、それとも単に悪徳業者の暴走であったのかは、彼女達の証言だけでは証拠にはならない。
といったふうに。
ましてや、当事者でもない者が、自分達の政治的立場に都合のよい証言だけを持ち上げ、自分達の主張の補強として政治利用し、対立する証言をする当事者を「嘘吐き」等と罵倒するような卑劣な行為は、信用し鵜呑みにするようなことはあってはならないと思う。
出来うるとすれば、いくつもの時代の証言に直接接して、謙虚に個別事例として受け止め、その上で自分なりに時代の全体像を整理し、雰囲気を大まかに感じとることだけではないかと思う。
最初に引用したブログ記事内で、韓国の文化日報記者が
人間とはわれわれが考えるよりずっと複雑な存在だという点だ。
と述べているが、その人間が多く集まって成立しているこの「社会」は、さらに複雑な存在だ。
一面からだけ見て判った気になり、軽々しく断罪するようなことは、あってはならないと思う。
我々にできることはせいぜい、その時代に翻弄されて不利益を蒙った人間が今も生きているならば、それを救済できるならばせめても救済する事、そして同じ不幸に陥る人間が再び出ることがないよう学ぶ事、くらいしかないのではないかと思う。
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・「定義できない」とのたまうものを自説根拠の説明の中で延々と使う不誠実(笑)(むにゅう!)
・絵文字標準化でのキャリア批判に思うこと(kokogiko)
・文化は変わっていくのは当たり前だからこそ、今問われているのはリアルタイムの選択(むにゅう!)
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